朝廷は武士の力をかりることで、将門の乱を制圧しましたが、東国全体はまだ辺境です。奥六郡(岩手県盛岡市付近)には安部氏、出羽(秋田県・山形県)には清原氏という豪族がいましたが、彼らは蝦夷(えぞ・えみし)に近く、まだ朝廷に「まつろわぬ」ものたちでした。
安部貞任を馬で追撃していた源義家は、「衣のたて(衣川の館に敷いた貞任の陣)は、もうボロボロになったぞ」と貞任に向かって怒鳴りました。
それがたまたま和歌の下の句(七七)の形式だったので、貞任は「長年の苦しい戦いでそうなってしまった」という意味の上の句(五七五)を返します。やはり馬上から怒鳴り返したのでしょう。
衣川の館、岸高く川ありければ、盾をいただきて甲に重ね、筏を組みて攻め戦ふに、貞任ら耐へずして、つひに城の後ろより逃れ落ちけるを、一男八幡太郎義家、衣川に追ひたて攻め伏せて、
「きたなくも、後ろをば見するものかな。しばし引き返せ。もの言はむ。」
と言はれたりければ、貞任見返りたりけるに、
「衣のたてはほころびにけり」
と言へりけり。貞任くつばみをやすらへ、しころを振り向けて、
「年を経し糸の乱れの苦しさに」
と付けたりけり。そのとき義家、はげたる矢をさしはづして帰りにけり。さばかりの戦ひの中に、やさしかりけることかな。【古今著聞集】
当意即妙の上の句に、敵ながらあっぱれと思った義家は、つがえた矢を射るのを止めて引き返したのです。
行軍中の義家が馬を止め上空を見ると、通常は整然と列をなして飛ぶ雁が乱れ飛んでいました。それを見た義家はかつて大江匡房から教わった孫子の兵法を思い出し、敵軍の伏兵ありと察知し、これを殲滅できました。
義家は「江師(ごうのそつ・大江匡房[おおえのまさふさ])の一言なからましかばあぶなからまし」と語ったそうです。『後三年合戦絵詞』
兵法を教えてくれた大江先生のおかげだというわけでした。
この話には伏線があります。
前九年の役の後に大江匡房が源義家を「器量は賢き武者なれども、いくさの道を知らず」と批評したことがあり、これが義家に伝わりました。すると義家は、怒り出すどころか辞を低くして匡房の弟子となったという話です。『陸奥話記』
【注】大江匡房(おおえ の まさふさ)は、平安時代後期の公卿、儒学者、歌人で兵法も教えていた。
後三年の役で源義家の先鋒軍に、鎌倉景政(権五郎)という16歳の若武者がいました。清原軍の放った矢が右目に刺さりましたが、その矢を抜く手当もしないで敵を逆に射殺し、引き揚げてきました。苦しむ景政に対し仲間の三浦平太郎為次が駈け寄り、矢を抜こうと景政の顔に足をかけました。景政は怒り為次に斬りかかります。驚いた為次に対し、景政は「武士であれば矢が刺さり死ぬのは本望だが、土足で顔を踏まれるのは恥辱だ」と言いました。為次は謝り、丁重に矢を抜いたと伝えられています。【奥州後三年記】