坂東武者とは?その系譜をたどる

第5回 蒲ザクラの伝説、北本市には範頼のご落胤が…

さいたま市の北隣・北本市石戸宿の東光寺境内に咲く石戸蒲ザクラ(いしどかばざくら、品種名:カバザクラ)は推定樹齢800年、ヤマザクラとエドヒガンザクラが自然交配して誕生しました。世界でこの1本しかない品種です。
大正11年に天然記念物に指定され、日本五大桜のひとつです。

老木で枯死寸前でしたが、北本市では「奇跡の復活」を試みています。また市内の高尾さくら公園には、後継樹も植えられています。

石戸蒲ザクラ
石戸蒲ザクラ

蒲ザクラという名前は、源範頼(みなもとのりより)に由来します。範頼は平治の乱で敗れた源義朝(みなもとよしとも)の子であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟、源義経の兄にあたります。

この3人は異母兄弟ですが、頼朝は正室の長男(嫡男)で一番格上です。

源義朝の息子は、平治の乱で父とともに死んだ悪源太義平を始め9人、末っ子の義経は九郎冠者(くろうかじゃ)です。

植物の蒲(カバまたはガマ)
植物の蒲(カバまたはガマ)

範頼は、久安6年(1150年)に遠江国蒲御厨(とおとうみのくにかばのみくりや・静岡県浜松市)で生まれたため、「蒲冠者(かばのかじゃ)」と呼ばれました。

「蒲」とは池や沼の水辺に生える植物のことで、カバともガマとも呼ばれます。「御厨」とは神社の厨房、ありていに言うと神社領です。蒲御厨は伊勢神宮に属しました。

 

源範頼
源範頼



武将・範頼の運命

平治の乱後、範頼は武蔵国の豪族比企(ひき)氏の庇護によって成長しました。そして比企一族の安達盛長の娘・亀御前を娶ったとされます。

北本市(武蔵国足立郡)の隣の吉見町(武蔵国比企郡)には源範頼館(吉見御所)の跡があります。石戸蒲ザクラの東光寺から北東に約7キロ、現在は息障院というお寺です。

治承4年(1180年)、頼朝が旗揚げすると範頼もその配下に参戦し、大手将軍として木曾義仲掃討や一ノ谷、壇ノ浦の合戦を指揮しました。その功で三河守に任じられたものの、天才指揮官である搦手将軍・義経のような華々しさはなく、影のうすい存在です。

 

壇ノ浦で平家が滅びると、まもなく頼朝は義経を討つ決心をします。この原因は梶原景時の讒言ともされますが、朝廷に代わる鎌倉幕府の武家政権確立を目指す頼朝には、京都に留まって後白河法皇に臣従しているかに見える義経は許せませんでした。 文治元年(1185年)、頼朝は土佐房昌俊が率いる小勢の刺客を送って、義経の館を夜討ちしますが、捕えられて逆に斬られてしまいます。その知らせに驚いた頼朝は、鎌倉から大軍を送ることにし、範頼に出陣を命じました。

大河ドラマの範頼(石原良純)
大河ドラマの範頼

鎌倉殿大きに驚き、舎弟三河守範頼討手に上り給ふべきよし宣へば、頻りに辞し申されけれども、いかにも叶ふまじきよしを宣ふ間、力及ばず急ぎ物具して御暇申しに参られたりければ、鎌倉殿「和殿もまた九郎が振舞ひし給ふなよ」と宣ひける。御詞に恐れて、宿所に帰り、物具脱ぎ置き、京上りは思ひ留まりけり。不忠なきよしの起請文を一日に十枚づつ、昼は書き夜は御坪の内にて読み上げ読み上げ、百日に千枚の起請を書いて参らせられたりけれども叶はずして、つひに討たれ給ひけり。【平家物語】

 

この文章だとと範頼は義経を討つのを逡巡して起請文を書いたが許されず、この時点で討たれたようですが、実際には義経を匿った奥州藤原氏の討伐軍にも参陣しています。動揺しながらも頼朝の配下にはとどまったのです。

義経と藤原氏が滅んだ4年後の建久4年(1193)年5月28日、富士の裾野での大規模な巻狩り(軍事演習)がありました。この最中に曽我兄弟の仇討事件が起き、将軍頼朝も討たれたとの誤報が鎌倉に入りました。頼朝の妻・北条政子は悲嘆にくれましたが、範頼は「範頼左(かく)て候へば御代は何事か候べき」と政子に言葉をかけました。

 

この発言が、頼朝に万一のことがあれば、嫡子である頼家(寿永元年[1182年]生れ・後の鎌倉二代将軍)を押しのけて、取って代わろう、という本心を漏らしたと受け取られ、範頼は伊豆の修禅寺に押し込められました。 

 

(建久4年)八月三日三河守範頼誅せらる。その故、去る富士の狩の時かりばにて大将殿の討れさせ給て候と云事鎌倉へ聞へたりけるに、二位殿大に騒て歎せ給けるに範頼鎌倉に留守也けるが「範頼左(かく)て候へは御代は何事か候べき」となぐさめ申したりけるを、さては丗(よ)に心を懸けたるかとて誅せられけるとかや、不憫なりし事なり。【保暦間記】 

 

大河ドラマの北条政子(杏)
大河ドラマの北条政子

政子にこの言葉をかけたという記述は、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』にはなく 『保暦間記(ほうりゃくかんき)』にしか存在しません。しかも『保暦間記』は、南北朝時代になってからの歴史書ですから、信頼性は低いとされています。

 

幕府の正史『吾妻鏡』によれば、8月2日に範頼が叛逆の企てを疑われて、弁明のための起請文を出したのですが、「源」範頼の名での起請文であったので頼朝の不興を買ったとの記述があります。もはや頼朝・頼家の嫡流筋以外が「源」を名乗るのが問題視され始めたのです。

 さらに、『吾妻鏡』には8月10日のこととして、範頼の腕利きの配下の當麻太郎が、頼朝の寝所の床下に忍び入って捕縛されたという、びっくりするような記述があります。これは誰が考えても、頼朝の暗殺狙いと思えます。しかし、當麻は起請文の扱いを知りたくて盗み聞きしようとしたしただけだ、と言い張りました。當麻も範頼も最後まで口を割らなかったようです。

 

(捕縛された當麻太郎が)申して云く、「参州(三河守範頼のこと)起請文を進せらるるの後、一切重ねて仰せの旨無く、是非に迷いをはんぬ。内々御気色を存知て、安否を思い定むべきのよし、頻りに愁歎せらるるに依って、もし自然の次いでを以て、この事を仰せ出さるるや否や、形勢を伺わん為参候する所なり。全く陰謀の企てに非ず」と。則ち参州に尋ね仰せらる。覚悟せざるのよしを申せらる。【吾妻鏡】

 

『吾妻鏡』には8月17日付けで、範頼についての最後の記録があります。

 

参河の守(みかわのかみ)範頼朝臣(あそん)伊豆の国に下向せらる。狩野の介・宗茂、宇佐美の三郎祐茂等、預かり守護する所なり。帰参その期有るべからず。偏(ひとえ)に配流の如し。當麻の太郎は薩摩の国に遣わさる。忽ち誅せらるべきの処、折節姫君の御不例に依って、その刑を緩せらると。これ陰謀の構え上聞に達しをはんぬ。起請文を進せらるると雖も、當麻が所行これを宥(なだ)められ難きに依ってこの儀に及ぶと。『吾妻鏡』

 

 



伝説となった範頼

横浜大寧寺の範頼の墓
横浜大寧寺の範頼の墓

『吾妻鏡』では範頼が起請文まで書いた叛逆の企てとはいったい何だったのか、分かりません。また範頼は伊豆で亡くなったとも、はっきり書いていません。ここから、範頼が生き延びたという伝説が生まれました。「伊予(愛媛県)の河野氏を頼って生き延びた」、「太寧寺(武蔵国久良岐郡・横浜市金沢区)まで逃れたが追っ手に追われて自刃した」、「因幡の霊石山最勝寺に入り、教頼と名を変えて出家した」などと伝えられています。横浜の太寧寺と鳥取の最勝寺には、範頼の墓(五輪塔)まであります。 

 

石戸蒲ザクラが登場するのが、北本市に伝わる伝説です。伊豆から脱出した範頼は石戸宿に至り、ついてきた杖を地に突き刺すと、それが根付いて蒲ザクラになったという話です。この場所は、以前暮らしていた吉野御所の近くですから可能性は高い話です。

 

北本市ホームページには、その後の範頼についてまとめられています。

1. 範頼は東光寺周辺に館を構えていた。

2. 亀御前という娘が早世したため、供養のために阿弥陀堂(東光 寺)を建てた。

3. 範頼は正治2年(1200年)2月5日に病死し、戒名を明巌大居士といった。

4. 蒲ザクラは範頼のお手植え、または墓標。

5. 根元にある石塔は、範頼の墓である。

6. 付近には範頼ゆかりの保養の池・番士坂・慰労の森・納涼台などがあった。

7. 東光寺には範頼と亀御前の位牌が保管されている。

 

吉見氏など、範頼の没後

倉武士の戦い
鎌倉武士の戦い

東光寺に暮らした範頼の没後は、その子や孫が五代に渡って吉見御所の館跡に居住し、 吉見氏を名乗りました。しかし、北条氏から弾圧を受け、能登(石川県)や石見(島根県)に子孫は分散していったようです。能登吉見氏は足利時代に守護に任じられ、石見吉見氏は江戸時代に毛利家に仕えていたとされます。

 

範頼が一時頼ったとされる比企氏は、もともと頼朝の乳母の家系で、鎌倉二代将軍頼家の正妻・若狭の局の父であった比企能員(よしかず)が、一時は外戚として権勢を振るったようですが、建仁3年(1203年)に北条時政と政子によって滅ぼされます。

 

また、範頼の妻とされる亀御前の生家である安達氏は、鎌倉幕府の有力御家人として繁栄しましたが、弘安8年(1285年)に謀反の疑いをかけられ、安達泰盛をはじめとして一族の多くは自害・討死にしています。

時代は大きく下りますが、戦国時代の石戸宿には石戸城が築かれました。これは太田道灌が岩槻城と川越城、松山城のつなぎの城として築いた城です。1562年(永禄5年)「石戸城の戦い」が起きています。上杉謙信がこの城を攻めて一時占拠したので、北条氏邦(小田原の後北条氏)は、暗夜に乗じて城の東側の沼地に一夜にして土橋(沼を埋め立てた道)を築き、一気に城へ攻め上って勝利したと伝えられています。

一夜堤
一夜堤

この土橋を「一夜堤」とといいます。石戸城跡と谷をへだてた東側の台地とを結ぶ長さ45メートル、幅5メートルほどの堤で、現在は遊歩道として北本市民に親しまれています。

 

 

坂東武者が生きた土地

いずれにしても北本市や吉見町がある旧武蔵国の足立郡・比企郡は、古来から坂東武士の蟠踞する土地でした。

現在でも、居合道、剣道、合気道、柔道などの道場がたくさん存在し武道が盛んです。市や町もこれらの武道を積極的に後援しており、時代こそ変わっても坂東武者の伝統が根付いています。

北本市には、いまでも範頼のご落胤の子孫が生きているという言い伝えがあります。 

他にもある蒲ザクラ

蒲神明社の蒲ザクラ
蒲神明社の蒲ザクラ

範頼の生まれ故郷、静岡県浜松市・蒲御厨の蒲神明社境内にも蒲ザクラがあります。

伝説では、頼朝の挙兵に応じた範頼が関東に向かうとき、ここに桜を植えたとされています。そうだとすると、範頼はそれまで、ずっと蒲御厨に居住していた考えるのが自然です。

 

ただし、現在植えられているサクラは、北本市から分けてもらった木のようです。

 

石薬師の蒲ザクラ
石薬師の蒲ザクラ

三重県鈴鹿市の石薬師町にも蒲ザクラがあります。範頼が平家追討のため、西へ向かう途中に石薬師寺に詣でて武運を祈願し、鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿して,『我が願い叶いなば,汝地に生きよ』と言って去ったとされます。ただし、ここでは「カバ」ザクラでなく「ガマ」ザクラと呼ばれています。